りあさんの世界

好奇心に任せて あれこれ行動中

戦跡 エリザベスサンダースホーム(大磯)

1946年 秋。
混んだ列車が 岐阜県関ケ原にさしかかる。
彼女は 列車に座っていたが その時
細長い風呂敷包みが 網棚から 彼女の手元に落ちた。

と、同時に移動警官2人が迫る。
網棚に戻した荷物に疑いを持たれ、
彼女は自分の物ではない荷物を 開けることになった。

通路にまで人が座るほど混みあっていた。
悪びれずに包みを開ける彼女ーーーーー。

ところが 何という事であろう、
その中には 20枚以上の新聞紙に包まれた
黒い乳児の死体が入っていたのだ。


彼女は 持ち主であると疑われる。
その後 その荷物は 沼津で乗り込んだ女の子が持っていたもので
名古屋で降りて行ったことが 判明。

しかし その時 彼女の耳に静かな神のささやきが
聞こえたという・・・・・・

「もし お前が たとえ一時でも この子らの母とされたのなら

何故 日本中の、こうした子供たちの為に その母になってやれないのか・・・」


この啓示が 彼女に余生を尽くす決心をはっきりさせた瞬間である。


敗戦後、占領軍の進駐と全土にわたる基地の配備によって
米軍を中心とする外国人兵士と日本女性のあいだに生まれた
混血児は15〜20万人とも言われれる。

「戦争の落とし子」「アイノコ」とさげすまれ
はては 街角、ドブ川などに遺棄される事も珍しくなかったという・・・・

彼女 沢田美喜三菱財閥創始者の孫娘)は苦労して1948年に
混血児受入れの施設を設立した。

設立が知られると 庭の中、門内の小道 トンネルの中に
次々と子供たちが 捨てられていったという・・・・・

今日、そのトンネルを抜けてみようと思った。

−−−−−−できなかった。

庭の中、門の中の小道・・・裏門の石階段も
暗く湿っていた様に思う。
「部外者の立ち入り禁止」と閉ざされた門扉は
色々な 空気と、何か で 
阻んでいるように思えてならなかった。


知る事。

知る事 で 見るべきである と思った。
この場所で 感じた、もの悲しい冷たい空気、
でも 美喜さんのもと、一生懸命生きたであろう子供たち。

産み落とされただけで 親に感謝というものが 
出来るのであろうか。

戦跡、爪痕というものは
目に見えない 心の中にも
数知れず あるのだと。

ひとつでも多く知ってみたい。